連載「ライト・ディメンション・デザイン(Light Dimension Design)」
月刊『商店建築』1996年連載から 著者:角舘政英+藤原京子 (#11 +風袋宏幸)
#00光再-始めに-要約版/
#01トイレの機能照明/
#02影の彩り-虹窓の科学-/
#03イルミネーション・サイン/
#04光-明-暗-闇/
#05時間感覚と光の周期性/
#06白い光と黄色い光/
#07機能照明からのアプローチ/
#08機能性と形から生まれる光/
#09あかりを灯す作法/
#10点光源がつくる空間/
#11デジタル・ライト/
#12光環境のデザインとは/
#13光再考-総括・まとめ-
光環境のデザインとは:
光を現象・機能・様式から紐解く照明デザイン論。茶室から現代都市まで、光の役割を深く考察する
■光再考-終わりに
光環境のデザインについて、今私たちが考えていること、立場を簡単にまとめてみたいと思う。今までの光環境のデザインに対するさまざまな意見や評価を見ていると疑問に思う事が多い。「温かみのあるにぎわいの空間」とか「陰影のある落ちついた空間」と表現される空間からは、どうも本質は見えてこないような気がする。なにが温かみを表現するのか?にぎわいのある光とは?落ちついた光とは?光環境を表現する言語としては未だ確立されていないのではないだろうか、主観的な言語でしか光環境を表現できないのであろうか、などといくつかの疑問が出てきた。これは疑問というより今までの照明デザインに対するアンチテーゼなのかもしれないが、どうにかして光の本質を見きわめることに光環境の新しい展開の可能性があるであろうと信じている。
このような視点から、連載の初めに「光の原点に立ち戻ってみることが必要である」と言い、この光の原点を三つに分けた。光の物理的現象を含めた<光の現象>、光の表れ方である<光の様式>、そして光が人の行為や行動と関係する<機能上の光>。光環境をデザイン、評価するための基準をこの3つに大別してまとめてみる。
■光の現象
光は物理的解釈をするとき、ニュートンが言うように光自身が持つ性質に、私たちの生理的機能に関わる問題を持ち込んではならない。しかしゲーテは光に詩的解釈を加えた。現在ではゲーテの研究は光学の上でほとんど取り上げられていない。しかしゲーテの見た光、観察の深さには脱帽させられる。私たちは、私たちの主観や感覚の動きを排除して論じている部分と、どうしてもゲーテ的思考の中で論じている部分とが同居し、その区別が明快ではなかったもしれない。しかしゲーテの論旨の中にある確実に現象の表れとしての本質的な部分は見逃せない。色の見え方の一つである補色の考え方などは説得力がある。このような意味でも光の現象を冷静に見るためにはニュートン的思考とゲーテ的思考とを上手く使い分けることが必要であろう。しかしここで重要なのは経験論的、主観的な見方は、場合によってはその本質を曖昧に、また見のがしてしまうことにつながるということである。
Chapter-2「影の彩り-虹窓の科学」では日本古来からある手法の一つである自然光の取り入れ方、窓の造りを紹介した。自然光には人が感知する全ての光の成分が含まれているといってもいい。自然光は一元的ではないのである。自然光はある時は夕焼けのように赤く、青空のように青く、また木々の若葉を照らす緑などに分光されるのである。そしてこれらの光の集合が私たちが見ている、体験している全ての光環境であるといってもいい。このような自然光を友達にすること、すなわちこの現象を細部に渡り理解することはその光の手法を自由に使いこなせることにもつながるのである。虹窓は分光された自然光が織りなす妙技の表れを視覚化するためのフィルターであった。
Chapter-8「機能性と形から生まれる光」では通常私たちが得ている照明手法(ダウンライト、ウォールウォッシャーダウンライトなど)が空間に与える影響を考察した。実際に使用される目的、机を照らすこと、壁を照らすといったこと以外にその仕掛である照明器具が見えることが、その空間性を鈍くしてしまっている事実を認識してもらいたかった。その空間のどこに光の重心を置くのか、また空間の境界をどこに求めるのか。光の表れ方はその空間性を左右してしまうが、照明器具の光学的性能、機能を理解することは、空間を彩る筆である照明器具を使いこなすことにつながるのである。
Chapter-10「点光源がつくる空間」ではクリスマスイルミネーション、星空、夜景、打ち上げ花火など点光源がつくるさまざまな現象を検証した。ここで興味を持ち得たのはこの点を物質性が消失した空間、非空間として私たちが体験しているのであろうかということであった。このことは逆に床、壁、天井などから構成される空間性に、相対する概念であるかのようであるが、空間そのもののあり方を問う良い機会であった。
■機能上の光
光というとどうしてもイメージが先行してしまう。なぜなら光は魔法のようであり、神であり、悪魔でもある。演出的な光の空間は人を魅了するし、幻惑することもできる。しかしこのようなデザインには確実に限界があり、そこでは新しい光の構成はありえない。私たちは演出的なる概念を一掃して、原点に帰り、光と人の身体運動との関連をチェックしていきたいと思っている。通常の人で視覚的な情報は人の感覚機能の中で80%を占めていると言う。何かアクション(身体運動)を起こす時の前段として目から入る情報、すなわち光環境は重要な要素である。この時の行動と光との関係を細部にわたり導き出せれば、その空間に求められている機能的な光を最小限に押さえる事ができ、なおかつ空間の表現の一つとして、また空間を演出する光をより明快に見せる事ができるであろうと考えるのである。
Chapter-1「ミニマムスペースにおける最小限の機能照明」ではトイレの機能上の光を考察した。だれしも、毎日、数回はお世話になっているトイレの光を、機能上から解きなおしてみることにより、自分の行動と光との関係がより明確になる。ごく当たり前に体験しいるトイレの照明を再考することは光の持つ意味を私たちに教えてくれるはずである。
Chapter-4「光-明-暗-闇」では明るさ、暗さの尺度をどのように見つければよいのかを考察した。これは照度的数字で表すのではなく、その場所でどのような行為があるのかによって、単純なものでなく、光の量、方向、色味などさまざまな要素が複合した上で成り立つものであろう。当時、実験的におこなったインスタレーションでは人が初めてきた廊下を歩くということと光の量との関係を実験した。トイレでの人の行為よりも、人が歩くということに着目したが、結果的にはそこを訪れた人は困惑していたようである。実は廊下が暗くなって歩けないというクレームが出たが、それはまさにねらった効果が出たということであった。
Chapter-7「機能照明からのアプローチ」では住宅内での光環境をそこで生活する人たちの行為から、構成し直そうという提案であった。この概念は現実的にどのようにすべきかは未だ考察中ではあるが、新しい光環境を提案する手がかりになるのではないかと思っている。特にそこで生活する人々の行為をレイヤーとして重ねていくと、均一的な光環境となってしまいがちであるが、実際は細部に検討を重ねれば決して均一にはならないはずである。これは商業施設でも同様なことが言えるであろう。複数の人々の行為を重ね合わせ、その空間の機能を構成し直すことは不可能ではなく、そこに新しい空間の可能性が秘められている事は確かであろう。
Chapter-9「あかりを灯す作法」では人があかりを灯すときの行為について考察した。このことは機能照明、光が人に与える影響という概念からはずれてはいるが、そこに光が欲しいときの人の機能上の行為として論考した。とかく商業施設ではそこで光を灯すという行為はおこなわれていない。たまにバーなどでは、客をもてなす作法として、席に付くと店員がテーブル上のキャンドルに火を灯してくれることはある。しかし、一般的に生活している私たちは一度、家を出れば、個人がコントロールすることが不可能の世界に入り込んでしまって、それが便利であり、当たり前のことと認識している。しかし光と人を論じるとき、次の可能性として、その光を自らコントロールすることができれば、そこでの光に対する概念に変化が生じるはずである。
■光の様式
冒頭で光の様式とは光の表れ方であると簡単に述べたが、もう少し正確にいうと現代、今の社会の中で見受けられる光のスタイル、記号といってもいいかもしれない。人工照明となると光源の種類には限界がある。ある目的(例えば看板として、高寿命、高効率など)を持ってすると、そこで使用される光源は限られてしまう。すると光の色味や手法はそれこそ目に見えて記号化されてくる。ではこの記号化された光はどのような時代背景から生まれてきたのだろうか。今後の時代の流れの中でどのように展開する可能性があるのだろうか。逆に記号化された光から今の、今後の時代、社会を見ることができるのではないだろうか。
Chapter-3「イルミネーションサイン」ではロバート・ベンチューリとデニス・スコット・ブラウンらが記した先駆的な都市論「ラスベガスから学ぶこと」がヒントになっている。ラスベガスのハッピーな背景をもった街のストリートに沿ってホテル、結婚式場、ガジノの商業建築がモータリゼーションの社会構造を受けて建ち、そこに機能的に理解しやすい図としての看板が並んでいる。この看板のスタイルはデザイン的にテイストが違うにしても、まさに今の日本の幹線道路沿いに展開する、各種商業施設に相通じるところがあった。特にこのChapter-3の冒頭にも述べたように、神戸を見舞った震災から、復興にいたる過程の中で最初に復帰したのがこれらの経済的力の強さを持ち得た企業のチェーン店のサインであったのは事実であった。いかにこの光たちが(今や日本の風景、ともすれば文化と言ってもいいかもしれないが)、私たちの社会に浸透しているかが明確になった。
Chapter-5「時間感覚と光の周期性」ではコルビュジエの描いた一枚のスケッチがヒントになっていた。このスケッチは太陽の運行(24時間)と人の生活のスケジュールを模式化したものであった。これは当時理想とされた睡眠-通勤(出勤)-労働-通勤(帰宅)-余暇-睡眠という一日の行動に対して、都市の物理的構造を変えることによって通勤時間を短縮し、なおかつ余暇の時間を広げることを理想とする概念であった。現在の私たち、特に私のように生活のリズムが滅茶苦茶な人間にとっては、一日の行動はどのようになっているのか。一日の行動というからには自然に太陽光に依存していることも見のがせない。では夜の生活の中で光との出合い方はどのようになっているのか。ここでは会社に出勤するサラリーマンと家庭で生活する主婦が一日の中でどのような人工光の量と出会うかをシミュレートした。そこで解ったのは都心ではコンビニの光はさほど目立ってはいないが、住宅地ではコンビニとスーパーの光の量の割合は半分以上となっているということだった。このことは明らかに私たちの生活の中での光の周期、パターンの変化を示していて、生理的な周期パターンとの関係の中での光のデザイン(時間軸の中での光の配置)が問題とつながっていくのである。
Chapter-6「白い光と黄色い光」では私たちが人工光に対して、白い、黄色いと大きく二つの色を光の表現として使用している現実がどのようなことであるかを考察した。黄色い光はくつろぐときの光、白くて明るい光は活動的な光、といった一般論に疑問を持っている。このような視点から日本古来からの光の様式の展開、発展が現在まで残っている物がほとんど無い事に気がついたからである。有明行灯、辻行灯なるものが、再現したものを除いて現在の照明手法に生かされているのだろうか。近代という壁にぶつかった日本の光文化の伝統は止まってしまったようである。私たちは本質的な日本の光とはなんであるか、この命題に真剣に向き合わなければならない時期にきているのかもしれない。
Chapter-11「デジタルライト」では無重力の世界であるデジタルの世界で創造されるデザインワークのプロセスは、アナログの世界の図面を書き、模型を造り確認するというプロセスとは大きく違っているという点について考察した。特にCGシミュレーションの中で光と物に対する感覚が、物質的な感覚でなく、データ的な感覚によって操作されている点に興味が集中した。またこのデジタルの世界がアンリアルなものから、CGというリアルな物へと意識が移行している点も見逃せない。今の子供達はディズニーの「トイストーリー」のCGの世界がそれはそれであるという前提で認識しているのである。これは明らかに思考するプロセスが今の子供達と私たちとでは違うということを示している。いずれそれは大きな違いとなって表れるであろう。そしてこの感覚のずれこそが次の時代の新たな光の様式が生まれる前兆なのではと思う。
このように私たちは主観的な言語による光環境の構築手法をあえて排除しようと考えてきた。ここでいう<光の現象><光の様式><機能上の光>という3つの枠の中では語りきれない部分が存在することは確かである。光が精神面に与える効果も重要な要素である。このテーマについては今後、さらに考察を深めていかなければならないものと考えている。
