連載「ライト・ディメンション・デザイン(Light Dimension Design)」
月刊『商店建築』1996年連載から 著者:角舘政英+藤原京子 (#11 +風袋宏幸)
#00光再-始めに-要約版/
#01トイレの機能照明/
#02影の彩り-虹窓の科学-/
#03イルミネーション・サイン/
#04光-明-暗-闇/
#05時間感覚と光の周期性/
#06白い光と黄色い光/
#07機能照明からのアプローチ/
#08機能性と形から生まれる光/
#09あかりを灯す作法/
#10点光源がつくる空間/
#11デジタル・ライト/
#12光環境のデザインとは/
#13光再考-総括・まとめ-
イルミネーション・サイン:
ケヴィンリンチ 都市のイメージから
コンビニやネオンの光を例に、看板照明が現代の都市空間で果たす「安心感」の提供と「景観・システム」への影響を考察
■都市の光が消えたとき
1995年1月17日、残業をして明け方家に戻りテレビをつけると、関西地方で大きな地震があったと報道されていた。工事中のクレーンが倒れている映像から事の重大さが感じられた。時間が経つにつれ画面に表示される死者の数が増えていく。神戸は震災に見舞われた。建物は崩壊し、火災が発生し、インフラが寸断され、多くの被災者を出した。この一ヶ月後、私はこの地を踏む事になった。知人の家を片付ける手伝いをするためである。夜になると街が非常に暗いのに気がついた。建物は立ってはいるが、窓から漏れる光が無い。ましてやロードサイドの看板も光っていない。街は活気を失ってしまったかのようであった。
それから半年後、もう一度神戸に行った。夜になると神戸ポートタワーがライトアップされていた。道路照明もほとんど復活している。そして何に驚いたかというと、道路照明以外ほとんど光の無かったロードサイドにガソリンスタンド、コンビニエンスストア、ファミリーレストラン、そして自動販売機の光が浮かび上がっていたことだ。この街に活気を呼び起こすようなそれらの光のたくましさをこれほど感じたことはない。日頃、街に対して暴力的ともいえるこれらの光に何かほっとした安らぎとも、安堵ともいえるような感じを受けた。資本主義経済大国日本を象徴するような現象とも言うことができるかもしれないが、最初に夜の街に光を投げ掛けたのがこれらの光であったという事実は、景観という視点から否定的に捕らえられていたこれらの光が、街のなかで何かしらの重要な要素となっていたことを無視できないものとした。
神戸の震災後、最初に出現した光。
復興に向けて力を発揮したのはガソリンスタンドとコンビニエンスストアだ。
■看板照明の様式
看板照明、サイン照明といわれるものには、大別して、野外広告看板、袖看板、そして建物全体を含めた看板がある。企業イメージ、商品イメージを植え付けることを目的とした野外看板。誘導を目的とした袖看板やサイン照明。神戸で見たガソリンスタンドやコンビミエンスストア、ファミリーレストランのその光はサイン照明である。遠方からでも一目で何がそこにあるかがわかるいわゆるロードサイドの内照式の看板だけでなく、建物全体の光で、ある特定の業種を示す。そこには不思議と業種ごとに共通した光の様式がある。
例えばガソリンスタンド。「日本石油」であろうと「出光石油」であろうと上部に企業サイン、足元に入り口を示す矢印、天井の高いピロティーには放電灯を露出させた照明器具が眩しく輝き、こうこうとした明るさを保っている。天井を支える柱に間接照明を施したりという細かい技は見受けられるが、そのサイン看板とこうこうとした大空間という組み合わせだけで、我々はそこにガソリンスタンドが存在することを瞬時に理解する。同様にファミリーレストランも、ロードサイドに大きく迫り出した上部のサイン看板とその下の駐車場を示す「P」。建物はライトアップされ、窓際にはペンダント、植栽にはガーデンライト。全体としては電球色系の光でまとめられたその光景はやはり「スカイラーク」も「ロイヤルホスト」もみな手法は同じである。コンビニエンスストア。言うまでもない。帯状のコンビニエンスストア独特のサイン看板と、むき出しの蛍光灯が天井いっぱいに整然と並び、2000ルクスはあるかと疑いたくなるようなスペースをつくりあげている。もう一つ例を上げるとパチンコ屋さんである。ガラス張りの建物が真っ白く輝き、そこにピンクだの青だの紫だの緑だのと色とりどりのネオンの光がチカチカしていたら、間違いなくパチンコ屋さんであると思わないだろうか。他にも、居酒屋、ラーメン屋さん、中華料理店、ゲームセンター、ホテル・・・と言葉を上げただけで一つの外観イメージが簡単に描ける業種は少なくないであろう。
われわれはいつの間にか同業他社企業群の戦略に染まっているのである。そして、われわれもまたその記号化されたサイン建築の利便さを享受し、意識しているいないにかかわらず、自らの行動に一つのパターンを習慣化させている、日本全国に均質化されたこれらのサイン建築は日本人の日常生活空間に不可欠なものとなってしまっている。
コンビニエンスストアはその立地にあわせて、
様々な方向から認知されるようにサイン看板が迫り出している。
ファミリーレストランは店内から洩れる光、植栽の庭園灯、
建物をライトアップする光、すべての光の色温度が白熱色に統一され表情をつくる。
■看板照明の構造
先にも触れたが同業種企業間の光の様式には共通の看板照明の構造がある。ここで問題にしたいのは色や形ではなく、そのスケールである。看板の持つ主な目的は「目立つ」ということであろう。「目立つ」とは当然、人にとってのことであり、この人には様々な状態がある。道を歩いていたり、ベンチに座っていたり、電車に乗っていたり、バスに乗っていたり、車を運転していたりなどである。この様々な状態により、視線の高さ、広がり、また人の移動の速さなどの条件により、それに対応した「目立つ」ための看板のスケールが必然的に決定してくる。そしてこれらを遠景、中景、近景の3つに大別する。遠景を考慮した看板は遠くからその存在を認知させるために高さと面積が要求される。ストリートサイドには必ずと言っていいほどポール看板(高さ約10m~15m)、または袖看板が設置され、情報としてはその企業のロゴマークが主体である。
そして近景のためにはもう少し詳しい情報、すなわち駐車場の入り口やサービスメニューの情報であり、近くによって読み取れるものである。中景というと全体の見せ方である。建物をライトアップしたり、コンビニエンスストアのように店の中の明るい雰囲気がその存在を示す。このように遠景ではその社名を知り、中景ではその全体の雰囲気を感じ、近景では入り口とその他の詳しい情報を知る。ストリートサイドに建つほとんどの商業施設はこの三つの看板を取り揃えている。
一つの敷地内にいくつもの店舗があると、
ロードサイドにはポール看板の林と化してしまう。
■模倣としてのサイン性
私たちはコンビニエンスストアのメーカーにこだわって店に入っているだろうか。ほとんどの人が近くにある店を利用しているに違いない。どの店であろうと扱っている商品の料金と質はほとんど変わらないため、「セブンイレブン」でも「ファミリーマート」でも、ただそこにコンビニエンスストアがあればよいのである。最初にスタートしたコンビニエンスストアのスタイルがその後のコンビニ様式といえる動向を示した。新しくコンビニエンスストアを始めるとき、あえて新しい様式を導入することなく、大手の集客力に便乗することができるのである。このような意味ではファミリーレストランもガソリンスタンドも同じであると言える。お決まりの照明手法は企業の様式と化し、私たちにその存在を安心して教えてくれるサインとなっている。
■集合の特性
同業種企業がなぜ、同じ様式の看板、建築スタイルを持つのだろうか。何か商いが生じる時、そこには人と物の流通が必要である。特に物を売る商売では人は多ければ多いほど売上が上がるわけである。単体の集客能力が乏しい小商売では、いかに人を集めるかは重要な条件である。これを表す顕著な例は発展途上国によく見られる。ベトナムでは川沿いの道に知らず知らずマーケットが形成される。自転車の荷台に山のように花(菊科?)を積んで来て道ばたで商売を始める。すると同じような人たちがどんどんと集まってくる。最終的には約50mの間に、花を売る人たちが60人も肩を並べている。驚くのはみな同じ花を売っている事である。また、花だけでなく、野菜を売る人、古着を売る人なども同じ様なコロニーを形成している。これは同業種が集まることにより集客力を高めている例である。
何か目的を持ってここに来た人にとっては、自分が求めている物をより安く、そしてより品質のいい物を得るための見定めがしやすい利点も見逃せない。そしてこのような場所で店を構えれば、そこには電気屋街、本屋街、布団屋街、布屋街、鳥屋街などど名のつくように、そのストリートは同業の店が軒を連ねる景観をつくる。日本でもこのようなエリアは都市の発展上、必ず存在している。同業種が集合するという特性は必然的に生じる現象なのだということを改めて認識する。そしてサイン看板の共通性にもその集合の特性が表れている。
何件も並んだホテルはお互いに前に前に主張しあい、
最後には建築看板がルーバーと化した。
同業種がここまで顔を並べると迫力がある。
■景観を守る立場
「景観条例」という制度がある。町並みの整備を目的とし、都道府県、あるいは市区町村によっては建築物や緑地、野外広告物その他に制限を加える物である。例えば東京都でも「野外広告物のしおり-うるおいのある美しい東京にむけて-」がある。ここでいう野外広告物とは「一定の期間屋外に表示される、看板、立ち看板、張り紙、広告塔、建物など文字だけでなく、絵、商標、シンボルマーク等も含む。」とある。さらに「東京都(区・市)では美観と風致を維持し、公衆に対する危害を防止するために、条例などで野外広告物の提出を規制しています。」と続く。この「」内の事由が広告を規制する理由である。しかしこの理論について考える場合、まず「美観と風致を維持」とは何であろうかと疑問に思う。今や美の概念自体が曖昧であり、風致などというものは存在していないこの東京の街に何を求めているのか疑問である。「公衆に対する危害を防止」とあるが、この資本主義社会において広告するという行為は一つのセオリーとなっているのであり、広告の恩恵にあずかっている人の立場をどのようにするのかまでは提言していない。都市のスケールから言えばたかだか数100平米のネオン看板と、高さ200mを越す高層ビルが自ずと持つ看板性との差異がどのようにあるかはなはだ疑問である。
看板は目立たなければいけない宿命がある。表現方法に枠を設ける、設置箇所を制限する、このような方法で「美観」が保てるのであろうか。設けられた制限の中で目いいっぱい機能を果たそうと主張する看板が街中にあふれている。
■看板都市の美学
広告看板が街や都市としてのイメージを形成している場所がある。ラスベガス、香港などはその代表としてあげられるのではなだろうか。日本では銀座の袖看板は発光するファサードをつくっているし、また新宿・歌舞伎町の歓楽街、秋葉原のネオン看板群は世界的にも日本的イメージのある街として認識されている。私たちが日ごろ見慣れた街並みでも視点を変えて眺めてみると意外と新しい発見があるものである。先にも述べたようにある地域がある照明手法によって統一され、またその密度を増したとき、一つの景観を形成する。この景観が日本の場合、どの都市でもよくみられる光景であるがゆえに、「公衆に対する危害」と言われているのだろう。しかしこれは小商売が集合することで地域としての集客力を発揮し、市場を形成していくという文化の表れであり、一方的に否定できるものであろうか。あるいはこのようなサイン看板は、図やイメージ以前に情報を提供する氾濫した文字情報として映るかもしれない。しかし、いかに各都市、各地域の固有のイメージをつくるか、いかにイルミネーションやサイン看板を図としてのイメージに置き換えられるか、そこにサイン看板が夜景の一要素として市民権を得るヒントが隠されている。
コンビニエンスストア、ファミリーレストラン、ガソリンスタンドはどこでもある一定の質を提供してくれる。スペインの地方都市で簡単に食事を済まそうとマクドナルドの「M」の字に入ってしまう。今や情報が均一化したこの日本、または世界において、どこの都市でも同じような光景が見られるのは、一つの生活水準を保証してくれる証でもある。夜に浮きだす光の情報としての優先順位の高さ、それを教えてくれるのがすなわち看板であり、そこから都市のシステムが見えてくるのである。
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袖看板が街並みのファサードを
発光させている。
銀座の夜はとても明るい。
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道頓堀を挟んで向かい合う
発光看板は大阪を
代表する場所を提供してくれる。 |
ネオン看板の連続は
香港を象徴する一つの
景色となっている。 |
